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宗教とドラマ −「アングリマーラ」を見て−


 インドに三か月滞在している間に、インド・タイ合作映画「アングリマーラ」を見た。指鬘外道=iしまんげどう)の名で知られる仏教説話で、日本でも以前はしばしば劇や舞踊の主題になったものだ。アヒンサカ(不殺生)という求道者が、師匠(バラモンの学者)の妻の情欲を受け入れなかったばかりに、「真理を得るためには百人の人間を殺さねばならぬ」とそそのかされる。九十九人まで殺した時に彼の母親がみずからを最後の犠牲者とするためやってくる。アヒンサカはこれに襲いかかろうとする。仏が現われて身代わりになろうという。アヒンサカはどうしても仏を殺すことができずその弟子になるというのだが、タイは仏教国だからいいとして、仏教がすでにほろびているインドで、そして自己の宗教をまもることに極度にいこじなヒンズー教徒の充満しているインドで、バラモンの学者がかたき役になっているこの仏教的物語が、どのような見物客を呼ぶものだろうか。―これが、私をその映画館へひきよせた理由であった。

 私はその二日前、あるいなかの町の劇場で、仏教がほろびている≠ニはどのようなさまかを実感したばかりであったのだ。その劇場は場末にあってシュドラ(下層民)だけしか見にこない。いまだにインドのカースト制度はかたくなで、ここにはベイシャ(商工階級)以上のひとたちは絶対に足を踏みいれないのに、なお客席はいくつにもしきられている。それは料金のちがいでなく、シュドラの中にもいくつかの差別があることをしめしていた。だしものは中世紀の宮廷劇でなかなかおもしろかったが、例によってえんえんと長い。終わってから俳優たちと舞台で記念撮影をした。その時、私のとなりにすわった座長がそっと私にささやいた。
「あなたは仏教徒ですってね」
「私は仏教徒ではありません。仏教を研究はしましたが…」
「いや、それでけっこうです。私たちはあなたが仏教にゆかりのある方だと聞いてとてもうれしくて…」
「私たち、とおっしゃいますと?」
「私たち劇団のもの全部です。この劇団は仏教徒だけがあつまっているのです。しかしこのことはどうか絶対秘密にしておいていただきたい」
「わかりました」
 むかしは帝王をさえひざまずかせたのに、いまの仏教徒はそれゆえに、最下層の民衆の中にしか、このようにしか生きることをゆるされていないのだ…。

 意外にも「アングリマーラ」は満員だった。母親がむすこのやいばの前にあらわれ、それが仏によって助けられるところではさかんな拍手がおこり、母と改心したアヒンサカが抱き合うと客席からすすり泣きの声がおこる。―だが私はそれらとは別なところでひどく動かされていた。
 ひとつは音楽である。日本では南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧≠ニ唱えられる言語はサンスクリットのブッダハム サラナム ガッチャーミ≠、んぬんだが、どっちにしても間のびした一本調子で唱えられる。
 ところがこの映画の音楽は、これを全体のテーマとして用い、最初からブッダハム サラナム…≠合誦(がっしょう)で聞かせるのだが意外にもまことに荘重で、何か清純なものがジーンとからだにしみてくるのであった。仏があらわれ、アヒンサカが改心するところなど私はその音楽の信仰的高まりのために泣かされた。
 ああ、仏教音楽も、ほんとうはこんなにうつくしいものなのか。キリスト教音楽や黒人聖歌の悲痛な浄福に私はこれまで幾度か胸をしめつけられたが、日本の仏教音楽など、だらしなくたるんでいて、まさに醜悪なるものの見本のごときであった(これはだれの罪か)…
 さらにこの映画は、アヒンサカの改心で終わらず、仏弟子になって托鉢(たくはつ)に出た彼が町の人たちからむごたらしい迫害を受け、それをじっとたえしのぶところを十分に見せている。―そこでも私は深く考えさせられた。

 大昔、ドラマのはじまりは、どこの社会でも宗教行事であったといわれる。しかし演劇が宗教とわかれて独自の活動をはじめるようになると、それは人間を堕落させるものとして、宗教の側から強く排斥された。しかし、しだいに教会は、演劇の悪魔のごとき大衆性≠利用せざるを得なくなる。現世的なキリスト教、ヒンズー教はもとより、現世厭離(げんぜおんり)のはずの仏教でさえ、賛仏護教のために演劇を借りるにいたった時代は意外にも古い。仏所行讃≠フ作者馬鳴(アシュバゴーシャ)の編集した三種の戯曲の断片が今世紀になって中央アジアで発見されたことなどがその証拠である。―こうして、教会や寺院は、長い間演劇の場であった。

 ドラマ、それは人間が何か≠ニギリギリのところで対決する場である。西欧ではその何か≠ェすなわち神であった。今日、若い世代の奔放な生活をえがくことが、全世界的に流行しているが、ヨーロッパのそれと日本とどこが違うかといえば、彼らは上からも回りからもつねに神≠ノよってしめつけられ、それからの脱出に彼らの苦闘があることが痛切に感じられるのに対し、日本にはまったくそれがないということだ。対決すべき何か≠ェないところに、どうしてドラマが生まれよう。その何か≠日本人はむかしからもっていなかったのか、それとも、いつかうしなってしまったのか…。われわれ日本人には何か≠ノ対する罪の意識≠ェきわめて微弱であることを、私はこんどの旅行中に身にしみて感じ、その一つの責任は日本の神や仏があまりにも簡単に人間の罪をゆるしすぎてきたことにあるのではないかと考えないわけにはいかなかった。
 日本の指鬘外道≠ヘ、アヒンサカが仏にあって改心したところでおしまいになる。ところが映画の「アングリマーラ」は、そのあとの罪のあがないの苦しさを見せて人間の善意≠ネどに甘えていない。宗教もドラマも、いまこそもっともっと何か≠きびしく求めなければならないであろう。

(「読売新聞」1961年7月23日)


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