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あんみつと人形焼


 私はたいへんな飲んべえと思われているが、またずい分飲んだ時代もあるが、本質的にはそうではない。私の酒は、酒そのもののためでなく、いつもそれによって大いに食欲が増進される、そのためのものだった。うまいもの、すきなものをさまざまにたっぷり食べる、これこそが私の道楽で、だから戦中ほぼ十年の大陸生活は、さんざ苦労のさ中にあったくせに、たのしくてたのしくてしようがなかった。四年間の北京生活、その間に何べんか上海、南京にも行き、ほとんど各地方の中国料理、酒、果物、菓子類を満喫した。中国人に友人が多かったから、どこへ行っても不自由はしない。大陸へ渡るまでは、私はハムレットのように痩せた沈うつな美青年であったのに、帰る時はフォルスタッフなみの太鼓腹のデブデブで、生活に困って仲間の「成功者」に金を借りに行くと、
「おいおい、冗談はやめろ」
 と笑いとばされる。彼らの誰とくらべても私のほうがはるかに血色がよく動作がおうようで緩慢であった。ああ、これこそが悲劇ではないのか。一家眷族みな飢えていることを、いくらいのちがけで訴えても誰も信じてはくれず、
「ま、久しぶりで食事でもしようや」
 とどこかに連れてゆかれる。そこで彼が支払うであろう金の三分の一でも貸してもらえれば四、五日間の家族の飢えは救えるのにとつくづく悲しかった。

 私はもう寿命のさきは見えているが、それでもまだ餅は確実に一回に一升分はたべる。あんみつも大好物で、若い女の子に、きみたちと食べっくらをしても負けないよというと、
「あら、せんせはお酒でしょ」
「いやあんみつ。うそだと思うなら食べっこしようか。負けたほうが払うんだ」
「いいわ」
 女の子はせいぜい二杯で音を上げるが、私は三杯目ぐらいからはじめてうまくなる。この頃はずい分あんみつもたかくなったから、ひとりの時は一杯でがまんするが、カモが引っかかった時は三杯。ほんとうは六杯までは自信があるが、女の子に持ち合わせがないとこっちがかぶらなければならないからぐっとがまんするのだ。

 まだ久保田方太郎宗匠が健在だった頃、「茶の間の会」一同が箱根の伊藤熹朔(舞台美術家)の別荘に遊びに行ったことがある。久保田夫人は浅草雷門の人形焼の箱を車中で開き、みなにすすめる。
「ワァ。わしゃ大好きじゃ」
 私がさけぶと久保田夫人は、
「久保田もそうなんですよ。まるでこどもみたい」
 と笑う。私はパクパクつづけざまに口にほおりこみ、宗匠もファイト満々でそれにつづく。久保田さんには何十年も懇意にしていただいたが、あまいものを食べるところは見たことがなく、まして人形焼の早食いなどはおどろき中のおどろきだ。私がすでに二十個をたいらげた時、久保田さんは十四個、すると仲間たちの顔色はしだいに変り、奥さんは、
「青江さん、あんた久保田を殺す気?」
 とその箱をしまおうとする。
「おい、出せ。勝負はまだついちゃいないんだ」
 久保田さんが例のキイキイ声で叫ぶと、安藤鶴夫が、
「青江舜二郎はもう死んでよろしい。しかし久保田万太郎はいけません。いい小説をもう二つ三つ書かなけりゃ。――青江さん、わかるだろ」
 そこで勝負は中止になったが、私にたちまち、

  青葉電車 人形焼の 食いくらべ

 の一句が浮かび、それを披露すると、
「それが句かよ。ますます死んでもらいてえな」
 とひやかされた。
 そして久保田さんはまぐろ(※)をのどに引っかけ、安鶴は、鯛焼かなんかを食ったのが命取りになってしまう。死ねといわれた私は健在。さて日本中の何を飲み、何を食べたら死ねるだろうか。
           

(「日本の老舗」)


※文中には「まぐろ」とありますが、実際は「赤貝」です(著作権継承者注)

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