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コンピューターとサザエさん


 私は東京電機大学の教授である。私が劇作家であることを知っている人間は、それを知ったとき例外なく同じ質問を目にする。
「いったい何を教えているんです」
 これがもっと親しいやつだと、
「いったい何を習いにいってるんだ」
 そのたびに私は天を仰いで嘆息せずにはおられない。
「ああ、日本の教養人は何とせまい世界に住んでいることか」

 NHKがテレビを始めた頃、そのためにアメリカからやって来たひと(テッド・アレグレッティ)の指導に私は参加することができ、ラジオ東京設立の時は、田町に事務所があった頃からそれを手伝い、日本テレビができた時もまだテレビ塔が建たぬうちから、その制作関係にタッチさせられる。が、私自身あくまで劇作家のつもりだから、これらの組織の中に入りこんで、役職につく気はサラサラなかった。
 しかしそのうちに、電気の魅力が私をつかんで離さなくなり、いろいろな妄想にとりつかれることになる。その一つが、
「コンピューターはドラマをはじき出せるのではないか」
 ということで、同じ電大の教授であった池田益夫氏に話してみると、なんとおどろいたことには、氏はもうコンピューターに小学校唱歌の伴奏を作曲させることに成功し、伴奏が一曲五十音符ぐらいでつくられるのに一つぐらいしか違わないこと、小、中学校の音楽の先生たちが学校で教わった理論によって作った伴奏曲より、コンピューターの方がはるかに独創的で新鮮だということを話してくれて私をおどろかせる。
「おもしろいから、ひとついっしょにやろうじゃありませんか」
 その手はじめに私は、何十冊とある漫画の『サザエさん』を、ドラマの基本構成という立場からさまざまに分類し、A・B・C・Dという四コマ構成の中、C・Dの中の一つをかくして、それをコンピューターに回答させるということを提案した。
 池田教授は大いに乗ってきて、
「偶然というものはおそろしいですな。私が今年の四年生に、卒論のテーマとして与えようとしているのが『予測』です。コンピューターが過去のデータを手がかりにどれほど未来を予測し得るかというのですが……。もし第三コマまでをコンピューターに記憶させることができるなら、そこから第四コマ目を予測させることは理論としては必ずしも不可能ではない……。しかし果たして先生の希望する材料にとびつく学生があるかどうか……」
 それから二、三日して池田教授から連絡があり、三つのグループから申し込みがあったという。ついては、戯曲およびサザエさん漫画の基本がのみこめるようなゼミナールをやってくれとのことで、私はいさんでベルグソンの「笑い」や喜劇の代表的理論書などを織りこんだテキストを作って、連日このグループと接触することになった。

 三グループの方法はそれぞれはっきりちがっていたが、それによってコンピューターがはじき出した第三コマまたは第四コマは『サザエさん』のそれにぴったり一致し、時にはコンピューターがはじき出したそれは原作よりもさらにすぐれていた。それを具体的にいうと、『サザエさん』のその作品―かりに No.15―とすれば、その第四コマには No.15のそれでなく他の作品、例えば No.22とか No.47とかいうやつがはめこまれていて、そのおかしさは原作よりも痛烈になっているのである。

 A班は私のテキストからまず次のような思考を引き出す。

 1 笑いの条件として「見る側の非情性」と主人公の行動の「無意識性」がある。
 2 「笑い」の直接要因としては「こわばり」があり、これは必然的に四コマ目の「感情変化」を引きおこす。これは大別すると、「怒る、おどろく、おかしい、よろこぶ、いやがる」になりそして喜劇は完成する。
 3 そこでまず、この五種類の感情を、データ分析の所に示されている記号(数字)に変える。そして起承転の三コマにおいてすでに数字化されているものにこれを加えると、そこに「こわばり」が与えられるのではないか……(以下略)

 B班では、まず四コマ漫画は「きわめて圧縮され、しかも生き生きした世界」であり、それは一見連続的に見えるが、じつは飛躍的、断続的であるという認識からはじめた。丹念で実直なコンピューターはとてもこうした「飛躍」をそのままでは受け入れまい。そこでサザエさん一家をつぎのように分析し性格づけて見る。

 1、女性とは 2、男性とは 3、家の主人とは……(以下、主婦、子供、サラリーマン、娘、親、年輩者、家族、調子良さ、調子悪さに及ぶ)

 これらの組み合わせが「笑い」を引きおこす要素は大別して二つある。

 何々らしい……9であらわす
 何々らしくない……1であらわす
 そしてその結末は大きくわけると明るい(笑い)か、暗い(怒る、しょげる)のどちらかである……(以下略)

 これらの研究報告及び座談会の内容などは昭和四十七年八月号の『放送朝日』の特集として、約三十頁にわたってくわしく掲載されているが、私がなぜこんなことを思い立ったかといえば、放送局がふえるにつれてテレビドラマのマンネリ化はひどく、何の独創性もないのに作者はたいへんなギャラをもらっている。それをコンピューターがはじき出せるとなれば、こうしたライターに払う経費がまるまる浮くことになって会社は大助かり、また作家の側からすれば、さらに勉強しなければ飯が食えぬということで、大いに発奮(然らざれば脱落)するだろうという悲願があったからであった。

(「電波新聞」1976年11月15・16日掲載のものにデータ等を一部加筆)


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