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居合いはいかが


 いま来ているD・タイガースから日本のプロ野球が技術的にまなぶところがあるのかないのか、私ははじめから今度のゲームに興味がなく、せいぜいテレビでひまをつぶしている程度だが、そのかぎりでは、堀太一氏のご意見にまったく共感した。
「この国の選手は教えられたことを実行していないだけだ」

 ところでわがプロ野球もそろそろ休養期にはいり、選手はそれぞれ勝手にその体力の鍛練強化につとめるわけだが、前から考えていることが一つある。それをここで巨人軍川上監督に伝授したい。川上氏を選んだのは剣豪小説家五味康祐氏の魔力に大分イカれているというようなゴシップもとんでいるので、それならばあるいは真剣に考えて下さるかも知れないと思うからだ(もちろんほかの監督がとりあげてくれても光栄である)。
 それは何か。――剣道の居合いである。

 むかし私が香川県で体育行政のしごとをしていた時、植田平太郎という範士の英信流の居合いを見てことごとく感心した。その頃は大投手の剛打者宮武三郎が慶応を卒業していて、毎年当時の高松商業のコーチにもどって来る。
 その宮武が剣道が強く、選手にバッティングのポイントをつかませることと、深沈たる真の勇気――ピンチになればなるほど澄んで、しかも高まってくる根性をやしなうには剣道にまさるものはないことをいつも強調していた。
 東京へ来てからも度々いろいろな達人の居合いを見る機会があり、そのうちに戦争に召集され、司令部勤務になった時、参謀長命令ではしめて刃のついた自分の日本刀でやらされることになった。
「なるほど、これだ!」
 私はそして日本刀は人を斬るためのものでないことを体感し、宮武が主張していたこともさらに強く肯定することができたのだった。

 精神修養には禅がいいといわれる。川上監督も、東映の山本(八)も山寺にすわりにいった。しかしそれ以後もダッグアウトでのびんぼうゆすりはなおらない。それはなぜかといえば、禅にはじつはまだまだ不たしかなごまかしがうんとあるからである。
 それにくらべると、居合いにおける精神の集中と気迫はまるでちがう。うそだと思うなら一度やって見るといい。新田恭一氏のゴルフスイング打法、ドジャースの水平打法ももちろんけっこうにちがいないが、それ以前の問題として、深沈と澄んだ心の目をとぎすますことがあると私は思う。そしてそれこそが日本独自のトレーニングではないのか。

 スタミナとスピードとファイトを欠いたプロ野球ほどみっともないものはないが、それらを強くする方法として、選手や監督が山野をとびまわるというのではあまりに動物的で物理的だ。川上監督よ。いっぺん居合いをやってごらんなさい。きっとあなたにはむいています。巨人軍の根性もそこではじめてほんものになるでしょう。

(「日刊スポーツ」1962年11月13日)


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