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異端の弁 −シェイクスピア試論−


 英国の古い演劇雑誌を見ていたら、ジョン・ボーンというひとが、学校劇について書いている。その中につぎのような文章がある。
「教室でシェイクスピアが教えられるために、シェイクスピアがきらいになるこどもが毎年何十万人出来るかわからない……」
 思わずニヤリとした。
 英国でさえそうなのだ。私が日本でおしつけられたシェイクスピアに食いつけなかったのは当然ではないか。

 私をシェイクスピアからひき離したのは、坪内逍遥である。
 その前にシェイクスピアを知っていた。中学の時だ。岸本という英語の先生がハムレットのあの有名な独白のところと、アントニウスの演説を、ガリ版にして課外に教えてくれた。すばらしくおもしろかった。そこで図書館へ行って逍遥訳を借り出し、かたっぱしから読んでがっかりした。あの雅俗混淆のセリフにはまるでついてゆけないのだ。しかしがまんして、とにかく全部読んだ。四年の時、卒業生を送る予餞会の余興で、アントニウスの演説の場を出した。頭に木の枝を巻き、教室の白い――といっても雨やほこりで灰色になったり赤ちゃけたり雲形のもようがあったりしている――カーテンをはずしてからだにまとい、書き抜きをもって読む。五分もたたないうちに七百の生徒が一せいにアクビをはじめたので、すぐ幕にしたなどということもある。それやこれやでシェイクスピアと聞けばぞっとするようになった。

 逍遥が一生の心血をそそいだ仕事にケチをつけて申しわけないが、あれは日本人にシェイクスピアを理解させる上に大へんなマイナスだったと思う。何年かたって、折紙つきといわれる彼の朗読をレコードで聞いて、やはり同じ感慨をもった。
 大学の時、英文科では斎藤教授がシェイクスピアを教えていた。米国の名優たちのハムレットのせりふを、レコードで聞かせてくれる――その時だけ、教室に入ってたのしんだ。『ヴェニスの商人』『ハムレツト』『マクベス』『リア王』――これが私が原書でらんぼうに読みとばしたすべてのようだ。ゲーテやカーリダーサや『ドン・キホーテ』や『西遊記』を読んだほどの震憾さがなかったのは、もちろん私に力がなかったせいだが、その先入感も大いに影響している。

 近頃になって私はやっとシェイクスピアを本気になって読もうと思っている。ローレンス・オリヴィエやオーソン・ウェルズの映画をみてからだ。そして『ロミオとジュリェット』もよかったし、最近の『オセロ』もよかった。原文はもうめんどうだから、いい訳文がほしい。中野、木下、福田――そのどれでも逍遥よりはいいだろう。文学的資質が、高いから。ただ、シェイクスピアの人間のおもしろさというものが、どの程度でているか――。

 小学校三年のころ、私は映画の新派悲劇で、『ハムレット』をみている。題名も俳優の名もわすれているが、日活作品で、立花貞二郎、吾妻猛夫などが出ていたように思う。庭で眠っている時に耳に毒薬がつぎこまれる前後のところしか記憶にない。かんじんのハムレットが活躍するところがまるで消えているのは、つまらなくてねむってしまったからであろう。当時の私は、尾上松之助の忍術か、外国のドタバタ喜劇と冒険活劇しか興味がなかったからだ。
 もちろん、その時、それがハムレットだとわかったわけではなく、後になって、ははア、あれがハムレットの焼きなおしだったのかと気がついたわけだ。
 私は、明治三十六年刊行の、土肥春曙、山岸荷葉作(訳ではない)のハムレットをもっているが、その中に日本の役名が書いてある。葉村年丸(ハムレット)とか令嬢折枝(オフィーリア)とか――。私の見た映画は、これにもとづいたものではなかったか。――筈見恒夫の『映画百年史』でしらべればはっきりするだろうが、めんどうくさい。

 シェイクスピアの作品についての私の興味は、いまひどく強いが、またひじょうにずれている。文学作品としての鑑賞よりも、民俗学的せんさくに重さがかかっているからだ。つまり、「シェイクスピア諸作品と東洋説話の関係」ということ――これについてはすでに鴎外が、『西遊記』に出てくる鳥鶏国太子の物語が、ハムレットの原型ではないかといっていて私はそれで目を開かされたのだが、鳥鶏国というのは大唐西域記によれば大体ヒマラヤのインド側のふもとにあった国のようであり、最近『万葉の謎』や『天孫族』でセンセエションを巻きおこしている安田徳太郎博士のレプチャ人とのつながりにも考えられるわけだ。もしもこの説話の起原がヒマラヤ附近だとすれば、一方は西に流れてハムレットになり、一方は日本にわたって古事記巻四十の目弱王説話(穴穂部王子、兄の帝を殺しその妃を妃として帝となる。前帝の子目弱王これを知って復讐す)になったといえないこともない。ただしそれにはもちろん精密な実証が必要だ。

 まだある。
 『ヴェニスの商人』の「肉一片、ただし血を流すな」の原型がインドの古典ジャータカの『天神と鳩』であることは、いまではひろく承認されていることだし、トオマス・ムンロによれば、ペルシャの古い記録にもその説話はあるという。『ロミオとジュリエット』の毒による仮死でひそかに脱出し、恋人同士が結婚するというシチュエイションは中国古典『異聞総録』にすでに見られる。さらにその古いかたちがインドにあるといわれるが、私はまださぐりあてていない。鶴屋南北の『心謎解色糸』という『お祭佐七』の書き替え狂言にお房という娘が服毒仮死の状態で本所綱五郎というさむらいのところへゆくというのも、同じ系統と見ていいであろう。清朝初めに出た『閲薇草堂筆記』がその直接の出所ではないだろうか。――ここではその毒が茉莉花の根からとられたことになっている。

 「ゲーテと東洋」と同じく、「シェイクスピアと東洋」は、いつか私が書いて見たい文章のテーマだ。その時にはこんな説話のあとづけだけでなく、彼の詩精神に、「東洋」がどんな風に作用しているかをくわしくさぐりたいと思っている。

(「現代劇」1956年11月号)


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