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名人戦の印象(1969)


 今年の名人戦もまた大山康晴名人が勝ってしまいました。まったく大したものです。今年の興味は何といっても挑戦者の有吉道夫八段が大山名人の子飼いの内弟子として少年の頃から大山名人の家で育ったというのですから、普通の弟子師匠というよりその密着度には肉親的なものがあり、こういうつながりの二人の対決というような筋立てにはわれわれ日本人は、いわば伝統的にしびれてしまうのです。
 私は今度の第六戦を拝見したいと思って、その第一日に箱根にまいりました。いつも新聞社が招んでくれるのは私の場合は第一回戦の二日目ときまっております。しかしとうとうそれでは物足らなくなって、私の将棋の先生である加藤治郎八段におそるおそるお願いしてみました。するとすぐご返事を下さってちょうど第六戦は自分が立ち会い人だから箱根へひと晩泊まりで遊びに来いというありがたいおことばです。そこで子どもの遠足のように胸をはずませてかけつけました。とてもよく晴れた日で風もなく、緑に燃える山なみの間に芦ノ湖はひろげた母親の胸のようにふくらんでいました。

 皐月富士将棋名人戦の宿  沙佛(※)

 宿ではすぐ関係者たちの控え室に案内されました。廊下のところに加藤先生が出ておられ、
「まだ序盤だから見場はありませんよ」
「いや、もうこの空気を吸うだけで……」
 それから一息入れて廊下をへだてたすぐ前の対局室へまいりました。入口の右側にすぐ机があって、記録係の青年が二人きちんとひかえておりました。手前の座布団が一つあいています。加藤八段はそれを指でさし、ご自分は青年たちの奥の席につかれました。私は音を立てぬように一礼しますと、そのけはいに大山名人は顔を動かし、
「あ、青江さん」
 というのと、加藤八段が、
「青江さんが……」
 というのとほとんど同時でした。
「青江さんはいつも第一回戦しか見せてもらえないというので……」
「そうですか。ようこそ」
 大山名人はあのつややかな顔にいつものやさしい微笑を浮べ何のこだわりもありません。私はそこでいっぺんでまいってしまいました。
 ――と申しますのは、この箱根での一戦は、大山名人二勝、有吉八段三勝のあとを受けた、いわばカド番で、ここで大山名人が敗れれば十一年ぶりで名人位をすべり落ちることになり、しかもそれは子飼いの弟子によってです。有吉八段の思いがけぬ健闘で、こういうヤマ場が生れたことでドラマは最高にもり上がり、世間もわあーッとさわぎ出しました。明日の夕方からは報道関係者はくるまをつらねてドッとおしよせる事は間ちがいありません。それを大山名人は知らぬはずはなく、少し頭のまわるひとなら、私自身がまったく突然にあらわれたということで、「この男もそれに関係があるのではないか。そうか、それほど世間はおれが負けることを期待しているのか」と直感するにきまっています。事実私にもそういう気持がまったくないとはいい切れませんでした。ところが大山名人の表情にはそんなけはいはまるでなく、ほんとうにすなおに私の乱入≠なつかしがっているのです。この虚心――それはそのまま開け放たれた窓から吹きこむさわやかな風と緑の山々、そして紺青の大空そのもののようで、まるでそうした宇宙そのものの精霊が人間のすがたで出現している――そんな幻覚に私は一瞬よろめくようでした。

 私程度の実力ではとても序盤の微妙なかけ引きなぞわかるはずはありません。それであいさつをすませたらすぐ引きさがるはずでしたが、加藤治郎八段が、
「青江さんは名人戦は全部見ているそうですよ」
 といったのがきっかけで、大山名人と加藤先生との間にその話がはじまりました。むかしは名人戦には新聞社さえ入れない時代があった事、それから共同通信だけに見せてやる℃梠繧ノなり、新聞社が名人戦をあつかうようになったのは昭和二十七年が初めてだというような事でしたが、名人戦は戦後宮中の済寧館という武道の道場のまん中で行われた事があるのです。それは昔私の学生時代、将棋のよい相手であった入江侍従のはからいであったことはまちがいがありませんが、たしか昭和二十四年ではなかったでしょうか。時期的には見せぬ名人戦≠ゥら見せる名人戦≠ノうつろうとするちょうど曲り角であったといえます。――
 そうした話での大山名人の記憶力のすばらしさに私はホトホト舌をまきました。年、月日、人物、場所などいささかの狂いもなく、まさにコンピューターなみです。
 その間、有吉八段は低く前かがみになり、たたみに両手をついてしきりに考えていました。まったく私たちの雑談が耳にはいらないようすです。それでも私は、じゃまになってはいけないとそればかりが気になり、ちょっと話がとぎれたところでまったく不自然に席を立ち、控え室に戻りました。
 そこへ芹沢八段が姿を見せました。このひとも心易い仲なので、ざっくばらんの悪口のいい合いになり、菓子をつまんで茶をのんでいるうちに話がたべもののことになりました。
「有吉八段、依然長考」
 といいながら加藤先生もやがて来られ、話にいっそうあぶらがのります。
 両八段はしきりに、「泊まってゆけ。今夜はうんと遊ぼう」といってくれましたが、どっこい、そうはゆかないわけは、その晩後楽園でプロ野球の巨人阪神戦があり、私はその切符をとっていたからです。
 帰りの時間を計算すると、そろそろ引きあげなければなりません。
「もう一度見ていいですよ」
 加藤先生はそういってくれ、また対局室へいきました。
 駒の配置はもとのまま。有吉八段は前とまったく同じ姿勢で考えています。
「青江さんの大食は有名でしてね。餅など一升ペロリですって」
 どういうつもりか、加藤八段はそんなことをいい出しました。二人の記録係の青年は思わず私の顔を見ます。
「ああ、お餅。お餅なら私も大好きです」
 大山名人はすぐのって来ました。
「へーえ。おどろいたな。どれぐらい」
「そうですね。今でも二杯はかるい」
「なーんだ。たった二杯か」
「いや、二杯といっても茶碗じゃありません。ドンブリで二杯」
「えーッ。どんぶり?」
「ええ、どんぶり」
 それからの説明がまさに大山流で、私たちをうならせました。
 ふつう餅を数えるのはひと切れふた切れといい、あるいは一杯二杯と茶碗か椀が標準になっているがその大きさは店によっても家によっても大小さまざまでかたちも一定していない。ところがどんぶりの大きさはほとんどきまっていて、それに盛られる餅の数量も一定している。だからそれを標準にするほうがどこへでも通用するではないか――というわけです。はたからどう見えようとそのほうがより合理的でむしろ普遍性がある――というものはどしどしとり入れて、それをやがて一つの定跡にしていこうという構えには升田流のハッとするようなアクロバットはありませんが、それでは誰もがこうした平俗なことに新しい手を発見してゆけるかというと残念ながらそうはまいりません。おかげで私はいささか大山世界というものにふみ込む手がかりを得たような気がしましたが、それよりも私はそんなどんぶりで二杯もたべる大山名人の食欲と、あのおだやかな風貌とがどうしても結びつきません。記録係の青年たちもひかえ目ながら、あきれたという笑いを見せましたが有吉八段は依然長考、一心不乱。――
「でも近頃のひとたちは餅はたべなくなりましたね」
 と大山名人はことばをつづけ、
「お正月だと餅を出すでしょう。私はふつうのように食べますね。それから若い連中が立っていったあとを見ますと、みんな残しているのです。もったいないから、私はそれをみんな始末してまわる……」
 というと、クスクスッという笑い声がおこりました。有吉八段です。顔はあげませんがとてもがまんがしきれなくなった――というようすで……。思えばそれも当然です。いま大山名人がいっていることは、まだ有吉八段が大山名人の家にいた頃、いつも経験していたことにちがいありません。大山名人の餅食いは有吉八段にとってはちっともめずらしい事ではなく、だからさっきは平気でおられたのですが、のこったやつをかたっぱしからたいらげてゆくようすは有吉八段には今でも目の前に見えるようで、どうにもがまんができず、また私たちの知らないなつかしい思い出もそれにからんでいて思わず勝負の世界からはみ出した――というようすでした。そこで私は有吉八段にすまないと思い、怱々にいとまをつげてへやを出ました。

 さて、バスにゆられながら私は、どうもこの将棋を有吉八段がおとすのではないかという気がしてなりませんでした。その理由の一つはこれまでの勝ち将棋は全部有吉八段が大山名人の玉頭に桂をはっていたのに、今回はどうもそのようすが見られないこと、もう一つは何だか飛車に血が通っていないという事なのです。第一戦の二日目の午後までは誰も大山名人の勝ちを疑わなかったのに有吉八段は2八の飛引という絶妙な一手を見せて、それからは一気に大山名人を寄り切りました。第五戦でも終盤に自陣の4一か5一かに飛車を打ちこんで局面をひっくり返しています。成り角は自陣にしまい飛車は敵陣内ではたらかせるという戦術――私たちはいつもこのように教えられて来ましたが有吉八段の場合、飛車は最後まで自陣にあって、動きません。にもかかわらず、それはいかにもさっそうと敵陣を動きまわる飛車にもまさる、一打必殺のすごい重圧をはらんでおります。私はそうした飛車をはじめて見て大いに悟るところがあったのですが、第六戦目にかぎり、動かぬ飛車はそのまま生気がなく萎えているようでした。
 バスは時々大きくゆれながら緑の中を下りてゆきます。俳句の季題になっている皐月富士が見えてはかくれ、かくれては見え……。
「一体、なぜ大山名人はあんな餅食いの話なんかをおもしろがったろう」
 もし挑戦者が山田八段か丸田八段か、とにかく有吉八段以外のひとでしたら恐らく名人はこんな非礼≠あえてしなかったと思います。それでは有吉八段は子飼いだからという気安さで、しかももっと邪推するならば、そんな下世話な話で有吉八段の純粋な思考を乱し、カド番に追いこまれた一戦を自分に有利なものにしようとする作為がそこにあったのではないか――勝負の世界はまことにきびしく、そうしたところにも勝負師のかけひきがあるとはよく大衆小説や「名勝負ものがたり」などの伝えるところですが、私の観たかぎり、大山名人にはそんな陰謀≠フけはいもありませんでした。そして私は突然「曽我の仇討ち」の話を思い出したのです。そうだ。それはちょうど五月、ところは富士の裾野ではないか……。『曽我物語』ではかたき工藤祐経は曽我兄弟の肉親でありながら、彼らの父を暗殺して領地をうばうわるい奴ですが、歌舞伎の名作とされる『曽我の対面』の工藤はこれとはまったくちがって、いかにもおうようで長者のふうがあります。
「おお、りっぱに成人したな。たのもしいぞ。いま、おまえたちが昔のうらみをはらすためにわしの首をとるというなら、いかにも討たれてやろう。これが狩場の通行鑑札だ。これをこなたたちに貸してやる。いつでもやって来い」――という具合で肉親としての情愛が強く出ております。
「そうか。わかった。大山名人が私をさかなにいろいろな雑談をしようとしたのは、有吉八段のペースを乱すためではなく、有吉八段に『おい、そうコチコチになるなよ。わしはいつでも討たれてやる気でいるのだ。だからのんびりかまえて力いっぱいぶつかって来い』――ということを感じとらせたかったのだった。それだ。それにちがいない」
 私はそう思うとようやく救われた気持になって、大きく息を吐き、また深く吸いこみました。うまい緑の空気が胸をつめたくそめてゆきます。
 だがそれもつかの間、私にはたちまちべつの推理がわいて来ました。
「有吉八段はひょっとしたら、そうした師匠の心づかいを敏感にキャッチしたのではないか。そして感激して急に固くなって、どうしてもここで勝って先生のこのご好意にむくいなければならないと思えば思うほどきゅうくつになる……」
 そうか。有吉八段は恐らくこの思いのゆえに敗けるであろう。……すると私の胸にはとつぜんあついものがぐっとこみ上げて来ました。

 そして有吉八段はほとんどいいところがなく名人にやぶれ、とうとう第七戦がたたかわれることになりました。これは名人戦ではじめての記録だというので、いっそう人気がわきあがったことはご承知のとおりであります。
 はじめにちょっと申し上げましたとおり、私は第一回戦の二日目に限定されてはおりますが、昭和二十七年以来ずっと欠かさず名人戦を見ておりまして、その間何べんか印象記のようなものも書いております。いまではほとんど忘れてしまった勝負もありますが、その対局場のもよう、解説室のもようなど、なお昨日のようにあざやかに記憶しているものもすくなくありません。しかし今年のそれは恐らくいつまでも心の中に生きつづけるんじゃないでしょうか。これまでの名人戦は、歌舞伎でいえば一番目狂言で強いものと強いものがまっこうからぶつかりあうといった要素が主になっております。ところが今度のばあい、めずらしく、師匠と弟子の情愛が勝負にからむという、いわば二番目の世話物狂言的な要素が加わったということで、大きく記録されるべきでしょう。そしてそうした情愛の微妙なからみあい、あるいはその反発を直接その場で私なりに感じとることができたという事で私は大山名人、有吉八段、そしてこういう機会をつくってくれた恩師加藤治郎八段に心から感謝している次第です。

(1969年6月 NHKラジオ「趣味の手帖」出演時の原稿より)

※「沙佛」(さふつ)は青江の俳号です


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