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梅蘭芳氏のこと


        

 梅蘭芳が来る。
 公人としての、また俳優としての氏の経歴はあらゆるジャーナリズムが紹介するであろう。私は戦争中に、上海で氏と会ったのでその時の印象を中心に語って見たい。

 昭和十七年のことである。その一月に私は足かけ五年の軍隊生活から解除されて、日本へ帰ったが、五月にふたたび大陸へ渡り、北京でホテルずまいをはじめた。
 毎夜のように京劇を見、Cという京劇関係の中国人と親しくなったことから俳優諸氏とも親しくなった。そしてある時、梅蘭芳をどうしても北京へつれて来たいという話が起ったのである。
 梅家の墓所が北京の西都にあってそれが土匪その他にひどく荒らされている。そのことを上海に隠棲している梅氏が聞いてひどく痛心し、ぜひ帰って修復を加え、先祖のまつりをしたいという希望をもっているそうだ――というのがきっかけであった。
 墓所と祖先のまつりを大切にすることは、日本人もそうだが、中国人の場合ほとんど生命的だ(「解放以後」はどうか知らない)。その席に居合せたある有名な花旦(女形)は、その話に涙さえ浮べ、
「北京で舞台に出る出ないは別として、とにかく、帰ってもらおうではないか。上海での生活は楽ではないらしいが、北京には梅の家はある。滞在中の一切は、自分たちでどうにでもしよう」
 といい出した。
 だが、Cや俳優たちでどうしても出来ないことがあった。上海から北京へ梅氏を無事に移動させることと、墓の附近の治安を確保すること――これだけ日本軍にやってもらわなければならない。華北と華中では政体も貨弊もちがい、身分証明書と旅行許可書がなければ、民衆は――もちろん日本人もふくめて――自由な往復ができなかった。そのきびしい管制をやっているのが日本軍だ。さらにいえば、いわゆる大東亜戦争がはじまった時、爆撃下の香港から梅氏を救い出し――Cの鋭いユーモアにしたがえば「盗み出し」――、上海で保護している――Cのことばによれば「軟禁している」――のは軍なのだから、北支方面から、南京の総軍にワタリをつけてもらう以外にはどうにもならない。
 ――というようなことから、その役目は私にまわって来た。数ヶ月前までは軍服を着て太原の第一司令部に四年もいたのだから、北京の司令部には顔が売れているだろう。懇意な参謀も多いにちがいないからあなたでなければというわけだ。おだてられるととたんにその気になる私の癖は今も昔もかわらない。私はすぐ司令部へ行ってT参謀に頼みこみ、T参謀――この少壮参謀がまたひどくおだてのきくゴウケツであった――はすぐ総軍に連絡して、梅氏にほんとうにその意向があれば、総軍としてはできるだけの便宜をはからかうという回答をもらってくれた。もちろん、中国民衆の宣撫工作上、多大の効果ありと判定してのことである。
 さいわいなことには、上海の特務機関に山家亨中佐がいた。李香蘭こと山口淑子を人気女優にしあげた蔭の人である。軍人生活をことごとく中国でおくり、吃煙嫖賭(宴会、阿片、女、ばくち)と呼ばれる悪徳の総てに淫していた。中国語ももちろん達者だ。終戦後引き上げて来て映画のパンフレットなどを出したが思わしくなく、山口淑子にたびたびの無心をしてとうとう最後にことわられ、甲州の山の中で自殺してしまった。
 その山家中佐が北京にいた頃、Cや私ともよく知っていて、それから上海へ転任したのだった。当然、梅氏とは交渉をもっているにちがいない。――ということで、九月の半ば頃、私とCとは空路上海へと飛んだ。

        

 行って見ると山家中佐は、フランス租界に目立たぬアジトをもっていて、いわゆる文化工作に従事していた。若い男たちがしきりに出入りしていたが、いずれも小知恵の利きそうなごろつきタイプで、建設的な感じはさらさらない。梅氏の寓居はやはり同じ租界にあって、山家中佐とはたえず連絡があるという。電話で都合をきいてもらって、翌日の午後にたずねることにした。
 赤茶けた練瓦づくりのしょうしゃな建物でシャムの双生子のように二つずつつながったのがいくつかかならんでいる――フランス風のアパルトマンとはこれであろう。目立たぬところに小さい入口があり、表札は出ていなかった。Cがベルを押すと郵便受けの口のような板が上にあがって人間の目があらわれ、私とCをするどく吟味してから戸をあけてくれる。中年のボーイであった。すぐ二階に通される。居間と応接間とを兼ねている大きな部屋だ。寝室とか食堂とか、浴室とか、おもな部屋は全部南で、階下には、雇人の部屋とか、台所とか物置とか――そんなふうになっているらしい。下に見える芝生の庭がみどりに燃えている。カンナの花が赤かった――九月の上海は、残暑ともいえないひどいむし暑さだ。Cと私はソファに腰をおろす。扇風機がにぶい音を立ててまわり出す。反対側の窓の近くに大きな机があって大小の硯箱や筆立や書物などがのっている。壁にかけられた書面も写真も、調度やカーテンの色調もすべて都雅隠逸で、俳優のわびずまいというよりも文人のそれに近かった。
 間もなく梅氏は出て来られた。淡青のシックなシングルの背広で、柔婉なからだをつつんでいる。つぶらで艶治な目にゆたかなまぶた、やや厚ぼったい紅い唇、鼻すじは白くとおって、短い口ひげがある。写真では前から知っている顔だが口ひげはめずらしい。からだが弱ってもう唱えないというしるしにたくわえたものだという。――そういえば、全体の印象にいかにもやつれたものがあった。五十近いというのに美しさはなおおとろえず、それだけに痛々しい。立ちあがって握手をし名刺を交換した。氏のそれは活字体でなく自署を刷った大型のものだが、容姿の感じとはちがい、凛と角ばってつよい。魏の書体を模したというより、性格のシンの強さが出ているのであろう。にこやかに腰を下し、卓上のタバコをとってすすめる。Cは謝して受け、私は謝してことわった。Cは私の略歴などを紹介し、如才なく話のいとぐちをほぐす。氏は低い声でことば少なに応対する。あきらかに気がのっていないことを私は感じた。日本人である私がわざわざ北京からたずねて来たことへの警戒心もはたらいているようだ。ムリもない。氏の身辺には、日本の私服憲兵だけでなく、重慶(国民党)や延安(中共)の工作員やテロリストがうようよしているのだから。
 香りのいいお茶が出て間もなくその席へ長い褐色の中国服をまとった老人が加わった。河野鷹思氏をおもながにして、鼻をもっと赤くしたような顔で、うすい白髪をうしろになであげている。姚といって、長いこと梅氏についている胡弓弾きとのことだった。京劇で俳優に唱を教えるのは主としてこうした伴奏者だという。つまり文楽の三味線弾きと同じわけだ。単なる伴奏者でなく、教師である場合が多いのである。この姚氏のお嬢さんがいまの梅氏の夫人だとCはささやいてくれた。離婚した最初の夫人は王明華といい、その兄は王毓楼という武生(武道立役)である。

        

 それから話は芸界の消息に及び、急に空気はなごやかに活き活きして来た。梅氏と共に「四大名旦」といわれた尚小雲、荀慧生、程硯秋などの噂が出る。程硯秋が突然唱わなくなって引きこもってしまったのは、日本軍の威光を笠に着たある日本人が出しものについて干渉しようとしたのを憤怒したためだとCは説明した。姚氏はハラハラした視線を私におくる。私は気ずかぬさまで眼下の緑の庭を見る。五才ぐらいのやせた半裸の女の子が阿媽と遊んでいる。梅氏のお嬢さんにちがいない。しかし私の注意は、ひたすら梅氏の表情にそそがれていた。程氏のその抵抗に梅氏がどんな反応を示すかを見たかったのだ。しかしそれはむなしく、氏は暗黙のうちにさりげなく庭に顔をむけただけである。カンナの花がいたずらに赤い。
 氏を爆撃下の香港から救い出したのは日本の特務機関であった。Y参謀だともI中佐だともいわれている。その他にもその手がらをほこる将校にそれまで私は何人か会った。しかし梅氏の口からはその誰の名も語られない。「おかげで助かった」とはいうものの、その表情にはしんじつの感謝の色はなくむしろめいわくそうなものさえある。北京で知っている多くの俳優の如才なさにくらべると、むしろ尊大とでも誤解されかねない、はっきりした好悪の表現があった。その点ではいまの中村歌右衛門に似ている。名門のもつ気品の高さなのであろう。――その時の爆撃のすさまじさにおびえたためか、心臓の具合がずっと悪く、どうしても唱う気力が出て来ない。唱わないと生活が立たないわけだがどうもしようがないというようなはなしも出た。
 やがて清雅な半袖の経羅をまとった夫人があらわれた。ととのった顔だちで年は四十前後でもあろうか。梅氏の貴族牲に対してどちらかといえば庶民的だ。Cが北京へ帰りたくないかとたずねると、率直に「とても帰りたいです」と答え、「上海は遊びに来るところで、住むところではありません。早く北京へ帰りましょうって、いつもダダをこねてこの人を困らせているんです」と笑う。

 その日はそんなことで二時間ばかりで引き上げた。かんじんの話にはまったくふれない。ホテルにもどってまるはだかになって扇風機をかけているとYというあから顔のがっちりした中国人がたずねて来た。上海有数の財閥で、Cとは同郷の友人だという。昔から梅氏のファンで、香港へ行って日本軍の援護下に梅氏を救い出したのも彼であり、その後もずっと氏の生活を見ているという。二人は知らない南方語――どちらも寧波(ニンポウ)人だ――早口に語り合い、夕方になって外へ出た。私にごちそうするというのだ。せせこましい、裏口のようなところから入る料理屋で、何人かの老若の嫖妓と歌唱いがあらわれ、おいしい川魚の料理をたべた。飲んでいるうちに私とYとはCの通訳ですっかり意気投合してしまった。彼は日本軍及び外地日本人がいかにそれに協力する中国人を理解していないかを痛憤し、これを見ろといって両の手首を見せる。黒いあざがはっきりと残っている。この春突然憲兵隊につかまってきびしい拷問を受けた。その時の手錠のあとだということであった。嫌疑は経済撹乱と通敵行為。二ヵ月の後友人の尽力で、多額の保証金を出して釈放されたという。こんなふうにして機密費をつくることは、どこの国の特務工作機関でもやっている。昭和十九年にはCもまた同じケースで北京で捕えられることになるのだが、Yの手首から目をそらすことも、頭を上げることも私には出来ず、YとCとがこもごもつぎのように痛訴するのをだまって聞くしかなかった。
――もし日本が負ければ、自分たち親日家は、漢奸として処刑されてしまうのだ。いわば命がけで協力しているのにその苦しみを理解せず、投機分子に対する軽蔑感をつねに抱いていて、自分たちを利用することしか考えない。……
 私たちはそれから何軒かの妓楼と豪華なキャバレエをまわりホテルにもどった時は夜が明けていた。その間にYとCは綿密な打合せをしたらしく、中二日おいてふたたびCと私が梅氏を訪閏した時には、話はすっかり先方に通じていて、展墓のために北京へもどることに梅氏も異存はないようであった。ことに夫人は大乗気で出発の日取りや乗りもののことまできめてしまいたいようだ。庭へ下りる裏階段のところで小さいお嬢さんも加えて何故も写真をとった。――すべては思いの外順調にそして隠密にはこばれたのだ。私はひとりですぐ汽車で出発した。飛行機のことや警戒の手配やらを至急軍に依頼しなければならなくなったからである。

 その汽車の中で私は発病した。上海熱と称せられる、発疹をともなう熱病である。司令部へ連絡するなり宿舎へもどるともう動けない。四十日もそのまま寝ついてしまった。その間にCは一旦もどって来、間もなく、いよいよ迎えに行くのだといそいそと飛んで行ったが、待てども待てども吉報は来ず、十日の後にC一人が愁然ともどって来た。
 ―了不得!(だめでした)
 その理由をCは語らないので、私としては勝手に想像するしかない。梅氏の意志ははじめからそこになかったのか、意志はありながらも、重慶か延安かのある力によって拘束されたのか、それとも何かほかに氏を不安がらせる事態が起ったのか……すべてはいまでも私には陰微な謎としてのこっている。

        

 昭和二十年、日本が敗け、二十一年私は引き揚げて来て、ある中国系の新聞に関係を持つことになった。重慶にあった国民政府は南京へもどり盛大な記念式典が挙行され、その席で梅氏ははじめて唄うという。もらろん口ひげはおとしてのことだろう。口ひげはあきらかに日本に対するレジスタンスであったのだ。その唱を私は南京からのラジオで聞いた。――日本へは何度も来ていたにもかかわらず、いずれもそれが私の東京にいない時であった。そして私が大陸へ渡った頃はもう氏は唱っていなかったのだ。だから私は、わずかに北京でできたレコードによって氏の最盛期の艶美な唱をしのんでいたに過ぎない。「玉堂春」「覇王別姫」「天女散花」「黛玉葬花」「貴妃酔酒」……それと氏の役柄の舞台写真とをほしいまま組み合わせ、かろうじて私は私の「梅南芳」を有していた。「一笑万古の春、一啼万古の愁」とたたえられたその声容も、こうして私にはいつか「未見の現実」となったのだ。

 だがラジオでの唱はもはや往年の張りと高囀を失なっていた。しかしそのふくらみと気韻にはこれまでにもまして王者のそれが薫染している。……多くの京劇の名優たちはこの八年の呪わしい侵略戦によく堪えた。だが梅氏のみは、まさによく戦ったといわれねばなるまい。芸術には国境はないであろう。然し芸術家にはまさに国境がなければならないのだ。国境ということばが誤解されやすいなら、民族的操守といってもいいし、人間的節度といってもいい。いまの私たちには、それがいつの間にか、ひどく失なわれてしまった。アプレの無軌道などということをあげつらう資格は、私たちの誰にあるか……。
 二十二年の暮、クリスマスをかねて梅氏は日本へ来る予定であった。国連軍の慰問のための旅行であった。私は私の新聞のために、氏の紹介、レパートリーの解説、写真などを準備したが、急に中止になった。しかもやはり、私の中国人の友人たちはその理由を説明しないのだ。――何か陰微な、ただならぬものがある……。

 そして今度、今度こそは、氏はたしかに来られるようだ。おそらく今こそ氏は自由なのだろうと思う。私はそうした氏との再会をなかば期待し、なかばおそれている。恐らく氏は私のことなど忘れておられるであろう。――その方がいいのだ。――ただこの機会にはっきりいいたいことは、当時氏の北京復帰を切望した俳優諸氏や民衆の気持の中に、日本軍の謀略がいささかも作用していなかったということだ。そのひとたちの心からの善意を私は氏に信じていただきたいし、さらにはいまの中共政府の人たちにも信じてもらいたいと思う。つまり今後そこから粛清される人間を一人も出してもらいたくはない――それが私の願いである。

        

 氏に関する評伝はすくなくないが日本人のものでは、波多野乾一氏の「現代支那の政治と人物」(改造社版)におさめられているものが、氏の華やかで哀切な青春をこまやかにつたえていておもしろい。郭という少年が梅氏に似た美貌で、梅氏と深く相親しみ、たまたま前門外の致美楼という飯店(私も何べんか行った)で食事している時、曹■(金+昆)の反乱が起って、町は混乱におちいり、銃砲声の中に二少年が抱き合って恐怖の一夜をすごすところなどいまだに私にはせつない。数々のパトロンのこと、さまざまな色っぽいエピソードなど、ちょうど維新前後のわがカブキの世界さながらである。わけても美しいのは京劇で男の立ち役(老生)を演ずる女優・孟小冬とのロマンスだ。どちらも熱烈に愛しながらもとうとう結婚に至らず、孟小冬は傷心のあまり舞台をしりぞいてしまったという。私は劇場のボックスで何度か彼女と隣り合った。端麗清秀な風姿で、何ともいえないさびしさがその彫りを深くしている。梅氏夫人には申しわけないが、私はこのひとのためにも、梅氏に北京にもどってもらいたかったのだ。孟小冬は私を知らない。しかしその時、彼女の頬に浮かぶであろうモナリザのような微笑こそ、この私のもたらしたものなのだ――その想像が何と私にはたのしかったことか……。

 中国では、一昨年上海の平明書院から出た「舞台生活四十年」(梅蘭芳・述、許姫伝・記)が、何といってもいちばん詳しいだろう。第二集まで出ているが、私生活がかげになり、修行談と芸談が主になっている。筆者が「解放清神」できおい立っていて、「一個の芸術英雄」を創造しようというイキミが、私のようなじだらくな「ねそべり派」にはいささかつよすぎる。
 しかしそれでもなかなかおもしろい。俳優にとって何よりも大切なのは目の光だ。眼晴に「神」があるかないかで、その運命はきまる。梅氏は少年の頃までは、目つきは美しいが、神がなく、当人も周囲もひどく苦にしていた。それが霊活になったのは、ハトを養うようになってからだった。毎朝早く起きて多くのハトを訓練する――そうしているうちにだんだん目の輝きがまして来たというのだ。――このしんじつで美しい童話の世界よ……。

 京劇における梅氏の業績は、新しい女形の創造にあったといえよう。むかしから旦(女役)と呼ばれるものは、性根が主となっており、その中に特珠なものとして青衣(チンイ)と呼ばれる役柄がある。(なお中国語の「脚色」は日本とちがってこの「役柄」を意味する)妙齢の少女の一つの情緒を表現すれば足りるもので、美貌とういういしさが条件となる。女にもないといわれる氏の声貌は、青衣にはまさに打ってつけであった。しかしそれはあまりにも局限された芸域だ。――といって、これまでの旦の代表的な役は、あるいは貞婦であり淫婦であり、勇婦であって、梅氏のあくまで艶治で健康な美貌と声音はそれによって全的に活かされるとはいえず、役自体もまた梅氏によってそれまでの諸名優を凌ぐほど活かされるとはいえなかった。そこで新しい劇本による新しい役の創造がはじまったのだ。それに参加したひとたちは斉如山、樊樊山、易実甫、羅慶公、呉震修、馮耿光などの学者文人、財閥である。そのあつまりは、「綴玉軒」と名づけられ、新脚本はもとより、梅氏の評伝、技芸の解説、舞台写真集などが次ぎつぎにそこから出版された。
 日本では先代左団次や井上正夫が、このような協力グループをもっていた。新作者の新脚本ということにきわめて貪欲な俳優としてはなお花柳章太郎を忘れてはならない。しかしこれらと綴玉軒と根本的にちがうところは、綴玉軒にあってはそれがあくまで俳優によって動員されたものでなく、真のファンの自発的なあつまりであったということであろう。しかも彼らは、よく結束して新しい梅蘭芳を創造し支援し宣伝した。斉如山の編集にかかる梅氏の写真集で両手の指の使い方を分類し解説したものなど一般的演技の研究の上でも大いに役に立つ。こうしてここから生れたのが「天女散花」「嫦娥奔月」「洛神」「黛玉葬花」「麻姑献寿」「尼姑思凡」などで、いずれも梅氏の当り役となった。

 ここで、私は少し意地がわるくなる。――というのは、これらの作品がほとんど非人間的神を主人公としていることにこだわるからだ。大体どこの国のしばいでも神らしい神、仏らしい仏が出てくるのでおもしろいものは一つもない。いわば古伝文学の粗雑な立体化にすぎない「三国志」「水滸伝」「西遊記」「施公案」などが京劇の中でもおもしろいのは、まことに人間くさい人間、庶民中の庶民がふんだんに出て来るからではないか。ところが梅氏の新作にはその味わいがきわめてとぼしい。もはやそこには一人の庶民もいないのである。京劇に背景や照明が用いられるようになったのは、これらの新作が初まりで、おそらく日本から移入された新劇に影響されたものであろう。しかしそれは、京劇をますます劇的にするよりも、むしろ活人画的にすることに終ったのではないか。
 程硯秋の「荒山涙」尚小雲の「摩登伽女」などの新作はいずれも背景と道具を飾っているが、それを見ても、そのことは類推されるのだ。――つまり梅蘭芳という一個のこの世ならぬ珠玉が出現したおかげで、新しい京劇もまたこの世のものでなくなったということ。そしてそれらが果して「解放」以後の中国の若い世代にどのように受けいれられているだろうか――。

 私は今世紀における氏の出現が、中国の民衆に与えた陶酔とほこりを否定するものでなければ、疑うものでもなく、写真とレコードによってさえ私は私なりに恍惚とし、わずかな時間の二度の対面である程度その深厚な人間牲に触れ得たようにも思う。しかし演劇史というものの立場から見るとき、綴玉軒のひとたちの「創造」には、こんな限界があったことを見ないわけにはいかないのだ。しかしとにかくいまや梅氏は一個の偉大なる世界的名優として、その舞台をわれわれに見せてくれることになった。まことに平和はいいものだ。

(「現代劇」1956年5月号)

※この一文は梅蘭芳の来日公演に際して発表されたものです


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