トップ > ズームひと:大嶋拓インタビュー





 干拓の進む八郎潟を舞台にした戯曲。狩野亨吉ら偉人の生涯を丹念に追った評伝―。幅広い執筆活動を展開し、本県ゆかりの作品も数多く残している秋田市出身の劇作家・青江舜二郎(1904-83年、本名大嶋長三郎)の生原稿や取材メモが、遺族から県に寄託されることになった。自宅の押し入れに長らく眠っていたその足跡は、来秋にも「あきた文学資料舘」で公開される。青江が亡くなって二十五年。寄託を申し出た長男の大嶋拓さん(45)=映画監督=が「父親・青江舜二郎」と「作家・青江舜二郎」を語った。

―資料整理の進み具合は?

大嶋 量的には「押し入れ一つ分」なのだが、取材メモや新聞の切り抜き「写真などが次から次へと出てきて時間がいくらあっても足りないという感じ。その資料がまた面白く、読み始めるとつい手が止まってしまう。父は大きめの方眼紙に物語の細かな「進行表」を書いてから執筆を進める人だったのだが、その方眼紙まで出てきたりして…。ところが完成した作品を読むと修正されたところもあり、それまで知らなかった作品の「成り立ち」が分かって、映画監督という仕事をする上でも勉強になった。資料整理を通して、青江という作家を追体験している感覚だ。

―家庭ではどんな父親だったのか。

大嶋 明治生まれなので一種の近寄りがたさはあったが、普段は優しい父だった。思い出深いのは「仮面ライダー」や「帰ってきたウルトラマン」の撮影スタジオに連れて行ってくれたり、特撮番組を見ながら種明かしをしてくれたこと。こういう経験が土台になって、自分は「舞台裏」からものを見る楽しさに目覚めた気がする。見る側より作る側の方が面白い、と。子ども心に「僕も映像を撮りたい」と思って、人から借りた8_カメラを小学三年生から回していた。四年生になったとき、父親にねだって初めて自分のカメラを買ってもらった。それは今も、手元にある。

―生前の青江に、聞いておきたかったことは。

大嶋 今にして思えばすごくたくさんある。自分は台本の書き方を誰かにきちんと教わったわけではなく、父親の書いたものを読みながら書くことを覚えていった。物語を書いていて、ふと「父だったら、どういうふうに書いたかな」と考えることがある。

―資料を整理していて、青江について「再発見」したことは。

大嶋 未発表の原稿が予想以上に多く出てきて、びっくりしている。正直言ってよくこんなに仕事をしたな、と思った。父は朝型人間だったので書くのは午前中だけだし、そんなにがむしゃらに働いているようには見えなかった。発表された作品のほかに大量の遺稿を見つけたとき、初めて「こつこつ書いていたんだな」と知った。一日一枚でも、一年聞書き続ければ三百六十五枚になる。積み重ねの大切さを、教えられた気がする。(文化部・三浦美和子)

おおしま・たく 1963年4月6日、東京生まれ。88年、「ドコニイルノ?」が、ぴあフィルムフェスティバルに入選。94年に初の長編作品「カナカナ」を制作・監督。モントリオールやベルリンなどの国際映画祭に招待された。作品はほかに「火星のわが家」「凍える鏡」など。神奈川県川崎市住。


(「秋田魁新報」2008年11月8日)


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