トップ > 読書室 > おタレさま

おタレさま


 長い間のリューマチ(※)がやっとおさまったので、半年ぶりであるテレビ局に行ってみた。まるでかの南蛮屏風のように、東西各国さまざまな身なりをした男女が、スタジオ近くのロビーや、喫茶室にあふれ、テンポのちがうさまざまなことばがなまあたたかい空間でぶつかりあっている……というさまは、ちょっと見ると、いつもと変わっていないようだが、空白をもつ私にはピリリとこたえるものがあった。物体の比重が、釣り合いが、完全にひっくりかえっている……。

 新劇のベテランがいる。映画のスターがいる。カブキの若手の顔も見える。むかしは――つまり半年前までは、これらの人たちのごきげんをとり結ぶのが、プロデューサーやディレクターのたいせつな「政治」のひとつであった。だが、いま、あそこのテーブルで芸術祭男のOプロデューサーとお茶をのんでいるのは、彼らでなくて、私などにはまったくなじみのない十代の小娘である。Kディレクターは、長イスに浅く腰をかけ台本片手に、しきりにセリフをなおしてやっている。これも赤いチェックのスラックスをはいた、ドギツい化粧のハイティーン……。これらの女性たちは、ついせんだってまでは、ロビーガールとよばれ、どこの局のロビーにもうようよしていた。テレビに出たく、金もほしく、有名にもなりたくて、そのためには何を代償にしてもいいというギラギラした目と思わせぶりな態度で製作スタッフにはたらきかける。しかし、スタッフは「政治」にいそがしく、これらの「消耗品」にはほとんど関心をもつひまがなかった。ああ、それが……、いまでは「おタレさま」(タレはタレントの略)とよばれてみんなにごきげんをとられている……。

 私はたちまち病床で読んだ、フロイトの精神分析の著書を思い出した。
 フロイトは、人間の「心」を「劇場」に見立て、「意識」を「舞台」に、「欲望、思想」を、それに登場する「俳優」に、「自我理想」(理性、抑圧)を「舞台監督」にたとえている。舞台に出たくてたまらない俳優や俳優志願者たちは、舞台の両ソデに集まっている。それを厳重に統制するのが舞台監督で、おかげで劇――人間の行為はスムーズに進行するのだ。ところがどうしても舞台に出たいという俳優志願者は、勝手に扮装し、あるいは生地のまま、舞台監督の目をぬすんで舞台にとび出してしまう。舞台の混乱が起こり、見物はとまどう……。
 これはまさに「心の劇場」の基本的なパターンだが、テレビに関する限り、シロウトのとび入りは、意外にも大いに見物に歓迎されることになった。なぜか。
 いま、あらゆる文明の発達にもかかわらず、いや、それゆえにこそ、全世界をおおっている人間存在への不安と不信、そしてそれにもとづく人間心理の混乱には、ただ混乱のみが受け入れられ、あらゆる秩序、あらゆる完成は拒否される……という一般風潮がこの世界にも現われているからなのか。それともテレビ本来のメカニズムから必然的に起こる現象なのか……。一般風潮のことはここでははぶいて、第二の問題についていえば、まさしくテレビカメラの特性こそが、無名無経験のチンピラ諸君のはでな出現にふさわしいのだ。

 あるディレクターはいささかの感傷をまじえて語る。
「舞台では――いや、映画でさえも金持ちのマダムがかかえているハンドバッグは、五百円のものを何万円かのものに錯覚させることができる。ところがテレビカメラはつねに、ぜったいに五百円のハンドバッグしかうつさない。そのくるしさ!」
 まったくそのとおりだ。そばで見ると、あんな小さな画面とはまるで不釣り合いに、波の目があらく、すべてがチカチカゆれているのに、すこし離れると、おどろくほど鮮明にあらゆる粉飾を拒否して冷酷にただその人間の、あるいは、物体の生地しか映し出さない。――とすれば、舞台や映画の演技はここでは原則としてゆるされず、ただ瞬間瞬間のナマな人間の行動のみが通用する。できるだけナマで、できるだけ新鮮、かつ、充実したもの……。

 しかもそのことを、理論でなく、素朴な実感でたちまちキャッチしたのは、いわゆる「民衆」であった。テレビが、都会の、特殊なひとたちのものであったときには既成スターがよろこばれ、それが急激に全国に普及するにつれて、このような現象が生じた。日ごとに新しいスターが生まれ、それはいずれもほとんどがシロウトである――ということを、ひとによっては、テレビの低俗化と見るであろう。しかし私は反対で、むしろテレビはここまで成長したのだと主張したいのだ。テレビはいまや、はじめて、既成芸術のヒモをたち切って、独立しかけている。それはまず、それ自体の、独自のリアリズムから出発しなければならない。それには新しい生命と物体がいる。東京と大阪出身でなければ俳優になれない時代はすぎた。おタレさまはむしろ地方出身に比率は大きくかたむいている。強烈な個性とみずみずしい端的な表現力――あまりにも植民地化してしまった東京の若ものたちには、気のきいた類型はあるが、人間はいない。

 テレビドラマの空間的なひろがりと同時性、そして親密な小さな茶の間の凸面舞台――ピチピチしたおタレさまはギャラがやすくて鮮度の高い消耗品として、むかし話の妖精のように、あらゆる地方に生まれ、どんな家庭にもはいりこんでゆく……こんな演劇は人類の歴史にはたえてなかった。

(「中部日本新聞」ほか 1960年2月17日)


※文中には「リューマチ」とありますが、実際の病名は「痛風」です(著作権継承者注)

トッププロフィール作品紹介読書室アルバムブログお問合わせ

(C)2009- OSHIMA TAKU All Rights Reserved.