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『釈尊』の思い出 ラジオ東京が開設された時、ちかごろの低俗な民放の番組からはまったく想像できないからいものが一本登場して、ジャーナリズムをあっとおどろかせた。『釈尊』(※)がそれである。しかも、りっぱにスポンサーがついている。Nという古くから有名な化粧品のメーカーであった。たまたまラジオ東京の嘱託として現場を手つだっていた私が印度哲学出身だというので脚本と製作のしごとがまわって来、ここぞ日頃のウンチクをかたむけるところだと大いにはり切った。主演俳優はアメリカ映画に何本も出演して国際的に名高いH、それにオペラ歌手の長門美保さんをふんだんにつかえという。作曲は宗教昔楽ですでにいくつかのりっぱなしごとをしている清水脩氏が指名されていた。じみな教祖伝でなく、いわばミュージカル的要素の多いものにしろ、というわけだ。こっちもそのほうがたのしめる。 最初の打合せで、はじめてN社長にあった。六十をこえたやせた老人で、熱烈な真宗の信者だという。私が印哲で、演出の佐々木孝丸氏が、香川県の真宗の寺の出身だとわかると、 「ああ、ありがたい。これこそ仏縁というものじゃ。このよろこびを、ゼニカネとはむすびつけとうない。純粋な感激でいきましょうや」 という。私もつりこまれて、 「まったくそうです」 と答えると、いっしょに行っていた営業部のKがグンとにぎりこぶしで私の背中をつっついた。 佐々木孝丸氏はいまでは映画でドスのきいたわるものの役ばかりやっているが、大正から昭和にかけての新劇の大先達である。ラジオの演出は私のほうがずっと経験があるのに、こうした大物がもって来られたのは、ひとえに主演俳優とのふりあいからであった。Hは国際的名優だという自信と、実践的仏徒であるという自負(彼は海軍兵学校の試験に落ちて悲憤のあまり腹を切り、助かって仏教に帰依した)から、自作自演自演出を強く主張し、H横暴のうわさに前から恐れをなしている会社はそれではとてもたまらないというので、私のほかに孝丸さんの起用ということになったわけだ。 さて。はじまって見ると、なるほどたいへんであった。N社長の前では、 「釈尊をやっている間は、酒色を一切絶って精進します」 と神妙な顔をして、感激の涙をこぼさせたくせに、スタジオにはいつも十七、八の芸妓をつれこみ合間合間にチョネチョネとイチャついている。孝丸さんが怒って退場を命じると、 「色即是空ということをご存じないか。気にするほうがおかしいですよ」 と笑うことばがレロレロでなまりがひどく台本が満足によめないくせに、ほかの俳優にはうるさくダメを出す。音楽や効果のきっかけにはいちいち口をはさむというしまつでまったく、孝丸さんがいなかったら、どういうことになっていたかと思わずにはいられなかった。孝丸さんは、Hとほぼ同年輩で、新劇人としての名声はHだって知っている。それだけに、かなり遠慮していることは私たちにもわかったが、かなりの遠慮がそれだった。 私の脚本にケチをつけるなどは毎度のことで、第一回が終った翌日私はN社長に呼びつけられ、 「青江さん。いかんいかん。小乗仏教はこまる。大乗の精神で書いて下され」 「?……」 「Hが、とてもやりにくいというてまったせ」 これには困った。私の専攻が「根本仏教」であることはまちがいないが、マカダ、コオサラという二大国にはさまれた周囲数キロの自治領、それが釈迦族の土地で、シッダールタは生れてまもなく母をうしない、おばの手でそだてられる。青年になって女が夫をえらぶという当時の上流社会の習慣にしたがい、侯補者たちと武技をあらそって勝ち、ヤショーダラ姫を得た。――そうした生いたちを書くのに、小乗も大乗もないではないか。シッダールタとヤショーダラとのたのしい語らいの場面については、 「釈尊ともあろう大聖人が、あたりまえの若い男のようなラヴシーンを演じたはずはありません。けがらわしい。許しがたいボートクです。そんな釈尊、ぼくはできん」 と、うったえたという。ばかばかしい、それではラーフラは誰の子なのだ。てめえはいつも女をつれて来やがって………。 というようなことで、録音のたびにモメごとがおこり、十三回の予定が九回でやめてしまった。しかも私が受けとったギャラが意外にやすく、その文句を係のほうにいいに行ったら、 「それは先生の責任です。先生のおかげで会社もえらいこといわれました」 「どうして?」 「だって先生、N社長といっしょに感激したでしょう。あれがあのひとの手なんです。感激さしちやァ、製作費をモロにたたいちまうんです」 ああ、そうか。営業部のKがうしろから小突いたのはそれだったのか、とはじめて気がついた。信仰と実利とをたくみに結びつけることがどうやら大乗精神というものであるらしい。だから日本はたしかに大乗の国なのであろうか。
※ラジオドラマ『釈尊』は1952年(昭和27年)1月6日〜3月2日、ラジオ東京(現在のTBS)にて放送。出演は早川雪洲、天草四郎、寺島信子、滝口順平、長門美保ほか。提供は中山太陽堂 |
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