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将棋あれこれ


 将棋はこどもの時から指した。定跡や詰将棋の本を買って読むようになったのは、大学にはいってからで……ここまで書いて、はっと気がついたのは、ちょうどそれは、私が戯曲を書きはじめたころと前後しているということだ。このことは偶然のようで決してそうではない。それについてはまたあとでふれるが、やはりその頃だったと思うが、「新青年」という雑誌に、関根名人の「棋道半世紀」(?)という文章が連載されていて、これがまったく痛快きわまりない読みものであった。同じ頃その雑誌にのっていた徳用夢声の『くらがり二十年』とどっちがとゆうくらい。――それがやみつきになって、私は新聞の観戦記をかならず読むようになり、戦争で大陸へ行ってからは、毎月慰問袋に入って来る「講談倶楽部」だったか、「キング」だったかに木村名人の自戦記が毎月のっていて、大いに私をたのしませてくれたものだ。

 一高からの同級生に兼子一というのがいる。加藤治郎八段が早大にいた頃、東大で将棋の大将をやっていて、二人の力ではじめて大学将棋連盟が出来たように聞いている。たしか土居八段に教わっていたようだ。それが、東大法学部教授のまま、北京大学教授として、戦時中の北京へやって来た。そして私と二人きりで、中国人の家を借りて同居し、家計の切りもりをしてくれたばかりでなく、毎晩食後に三度ずつ将棋をさしてくれた。もちろん平手である。私は決して相手がどんなに強くても平手以外はささないことにしている。
 将棋をたのしむには平手がいちばんである(相手ははたしてどうであろうか)。しかし一年半ばかりの間に彼は一ぺんもまけてくれなかった。

 その頃山西省太原にSという男が土建をやっていた。Sは私の中学の同級生で、明大でハーモニカバンドをはじめて組織したり、黒紋つきに朴歯の下駄で、帝国ホテルのダンスパーティーにウンコをほうりこみにいったりしたこともあるというが、これまた将棋が強くもっばらカケ将棋をやっていた。それがたまたま北京へ出て来たので兼子に紹介してSの宿屋で将棋をささせたら、朝の八時から夜の十二時すぎまでとうとう勝負がつかなかったことがある。彼は出て来るとかならず、私に盛大におごってくれることになっているのでその時も一流の料亭に夕方から席を設け、山海の珍味に三人のオールナイトの美妓さえ予約していた。ところが夕方になってようやく中盤にかかったぐらいだから、いくら催促しても二人は腰を上げない。料亭からは早く来ないと美妓は将校たちにとられてしまうとひっきりなしに電話がかかる。よっぽど一人で行ってやろうかと思ったが、私には立会人としての責任がある。その時ほどこの二人が非人間に見えたことはない。しかも二人とも女がきらいかといえば、どうしてどうして、私のような観念派の遠く及ばぬ実戦派なのだ。結局Sが勝ってケリがついた頃は夜中の二時すぎで、とうとう宿のあたたかいメシさえ食いそこなったという次第であった。

 そのSが昭和二十三年頃、全国素人選手権大会に、秋田の代表で上京して来たことがある。その時、私をたずねて来て、今度の上京には勝負のほかにもう一つ目的があるという。何だと聞くと、塚田名人(当時)の詰将棋の本にまちがいがある。正解は十三手詰になっているが自分がやったところでは十一手詰だ。それを塚田名人にただしたいとのことであった。その日、Sは石川県代表(?)をやぶり夕方元気よくやって来たので、詰将棋の方はどうだったとたずねると、
「何と、やっぱし、大したもンだ。えれどえれど(えらいぞの意)、塚田さんは」
 と前おきしていうには、おそるおそるその本を示して会場に来ていた塚田名人にただすと、
「そんなはずはありませんが……」
 といいながら、さっさとならべていたが、「そうか、私のまちがいです」
 といって、すぐそれを認め、ただ認めただけでなく、すぐその出版社に電話してそれを訂正するように申し入れたという。それを語るSの表情には、塚田名人をやっつけたという得意の色はまったくなく、ただもう虚心に真実の世界にのみ生きる名人の態度に完全に圧倒された謙虚な尊敬でいっぱいであった。そして私も、終戦後のあのモヤモヤゴタゴタした中を一陣の涼風が吹きぬける感じに、何ともいえぬ爽快さをおぼえないわけにはいかなかった。

 私は名人戦の度にかならず朝日新聞社の前にたたずむ。するときまってお目にかかる顔に、色彩学と音響学の権威、田口りゅう(※「さんずい」に「卯」)三郎博士がいる。
「やア、ご熱心ですね」
 と声をかけると、
「ええ、あんたもそうじゃアありませんか」と答える。
「一体どれぐらいお強いんです?」
 といつか私はたずねた。すると博士は、
「さア、初段に三歩ってとこですな」
「え? 初段に三歩?」
「ええ。僕の友人のある博士が今度初段をもらったんですよ。そいつを負かしてやろうと思って、せんだってやったところがね、僕は同じ筋に歩を三歩打ったんだな。もちろん僕は夢中で気がつかない。相手も気がつかない。とうとうそれで僕が勝ってね。あとで見たら三歩なんですよ。そこでそれが僕の実力ということになった……」
「そしてそれがまたその初段氏の実力でもある……」
「そんな悪口をいっちアいけないな。彼は君の先輩だよ」

 そこで私はフト思い出したのだが、その先輩というのは、いま原子力の平和利用で、ジャーナリズムのハイライトをあびている藤岡由夫博士ではないだろうか。藤岡博士は将棋が好きでしかもひどくご自慢だ。私といつかある席でおち合い、大いにたがいの強さを誇り合ったあげく、一チョウ来いということになったがあいにくそこには将棋盤はなく、後日を約してもの別れになった。言論戦ではまさしく私が優勢だったことは、博士の次のことばでも知れよう。
「そりァ、ひょっとして、あるいは君に不覚をとるかも知らんがね、その代りメクラ将棋じゃ絶対まけんぞ。おれの理論物理学の思考力はメクラ将棋でやしなわれたんだから……」   
 博士はむかしからトイレットが長く、一高の寮時代から、仲間と二人、隣り合わせにはいっては、大声でメクラ将棋をやったという。
「じゃァ、トイレットの方が終っても、将棋の方が終らなかったらどうします」
「そりァしようがない。終るまでしゃがんでいらあね」
 日本将棋連盟は藤岡博士に雪隠詰の名人位を贈ったらどうだろう。

 この文章は、たしかにここらで「寄って」いるはずだが、「寄せ」だけがまことに、異常にまずい。しかも調子がいい時ほどポカをやるところは、わが愛する升田八段そっくりの私であるだけに、ここでいくつかの「緩手」をさすこともやむをえない。だが私としては、この緩手こそ、ぜひさしたいところなのだそれは、私は将棋に何を学んでいるかということ――

 第一に、高段者の将棋は序盤においてすでに「寄せの形」がある程度頭の中に描かれているようだが、私たちが戯曲を書く場合もそうである。終盤、つまり最後の幕切れを明確にきめてから、第一章を書き出すというのが正しい順序で、「寄せ」のきまっていない「構成」は不たしかで、まぎれが多い。ところが初心者の戯曲というものは、まず思いつきがあって、それを初めから終りに向かって書きすすめて行くために、途中で方向がうやむやになってしまう。将棋に近代将棋と呼ばれるものがあるように、劇にも近代劇手法というものがある。法則において変らないがスピードと構成の簡正化において、古代とはっきりちがうのだ。私が戯曲の書き初めに、将棋を何となく勉強しはじめたことはまっさきにのべたが、寄せのかたちと幕切れの関係に思いあたったのはそれからずっとあとだった。いまでは何か書きたい材料をつかむとまず専心、寄せの形と手順を整える。独創的な、それしかないという一手一手をつみ上げた最短距離――そこから新しい戯曲の定跡は生れるわけだ。

 次には、自分の生涯の仕事としていることに対する態度――いまA級位にある棋士のかたは十人足らずでそれこそ選り抜きのヴェテランだ。これを戯曲作家の中に求めると、戯曲八段に相当する人は、それこそ三人もいない。あとは私はじめせいぜい二、三段程度のところがうようよとえばっている。芸術の世界には勝負がないからそれがゆるされているわけだが、私は、いつでも加藤八段原田八段松田八段たちが将棋を指導しておられるところをそばで見ていて、あれほど整然と、その手順のあやまりとよりよき筋の解明を戯曲批評においてなし得る作家が何人いるだろうと考え、そしてはずかしくてたまらなくなる。しかもこれらのかたは、どんな連中の、どんなまずい将棋でも、つねに真剣に見ておられて、きびしいしかしじつに親切な批評をおしまない。それにくらべると、私などが、いろいろな演劇のコンクールの審査にでかけたり、若いひとたちの脚本批評などをする場合、その半分も心がとどいていないことをいつでも痛烈に思い知らされるのだ。私はもっともっと、真剣に謙虚に、いつでも「カスリ」の気持で、演劇に対するのでなければ、とても高段者にはなれないと思う。……そんなことで、私は近ごろ、前よりも少し戯曲の書き方がうまくなって来たような気がする。将棋の方はあいかわらず加藤、原田両八段に笑われるほどおそまつだが、その精神を戯曲の方に生かしているとすれば、これまた両氏のお弟子としてはりっぱなものではないか。

(「将棋世界」1956年3月号)


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