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東北弁と秋田弁


 落語、講談、しばいなどでは主人公はみないわゆる標準語をつかうが、めしつかいたちは方言だ。ところがこの方言は大体定型化されていて、いわば方言の標準語≠ニもいえるものになっていることは、ご承知のとおりである。大体関東の農民のことばをもとにしているが、それに房州あたりの漁民のことばもまじる。
 こうした一種のしきたりが、終戦後、急にケシとんでしまった。まず大阪弁のものすごい進出があり、一、二年前のテレビの喜劇番組などほとんど大阪のコメディアンによって独占されるというぐあいであった。
 つぎに人気が出てきたのは東北弁である。
 これは何といっても、うつくしい(彼女の素顔はほんとうはなかなか美人である)コメディアン若水ヤエ子くんのおかげだ。彼女は東北生れでもないのに、あのわかりにくい東北弁をいともなめらかにあやつり、しかも誰にもわかるようなくふうがなされている。東北振興会社の総裁あたりは当然文化功労賞を出すべきではないか。

 東北弁がひどくわかりにくい理由は二つある。
 ひとつは、キ、シ、チ、などのイ列の音が全部、ク、ス、ツというウ列の音になり、ウ列の音がイ列のそれで発音されるだけでなく、同じイ列がまたエ列と混同されているからだ。そしてカ行夕行がほとんどにごり、音の転位が勝手におこなわれる。
「そんなことをしてはいけない」が、
「ホンダラゴドステエゲネド」
 というぐあいだ。
 しかしこのばあいは、もとのことばが標準語だから、しゃべる人間のくふうと聞き手の努力によってはある程度通じる可能性がある。戦後の若水ヤエ子くん、戦中の古川ロッパの東北弁はみなこの系統であった。

 ところが、このような発音のほかに東北弁独持のことばがうんとある。それがあのわかりにくい発音とむすびついているからことはめんどうだ。
 さて、ここで、わがふるさとのことは秋田弁にふれなければならなくなったが、秋山びとはむかしから、そのことばに対して、ひくからぬプライドをもっている。
「アギダベンダドデ、ミンナバガニスルドモ、ホガノケンドダバ、ママンデ(まるで)ツガウナダヤ。ナントステ、キョウドヅグデン(京都直伝)ダガラナ」
 この主張には十分な根拠がある。
 徳川時代の秋田の領主は代々佐竹家であった。もと水戸一帯を支配した百万石の大大名であったが、関ケ原の合戦で大阪方に味方して家康に負けたため、秋田に左遷させられて二十四万石(だから秋田と茨城とはいまでもことばがよく似ている)。
 この作竹家についてはむかしからいくつかの特殊性≠ェ民衆の間にいいつたえられていた。

一、代々殿様は奥方を大名からでなく、かならず京都の公卿からむかえる。
一、代々殿様は美男である。
一、代々殿様は×××が弱い。

 この第三項についてはノーコメントとしよう。第二項にも多少の論議があるかも知れない。――というのは秋田の男性の顔は、政治家では石田博英、プロ野球では、大毎の三平、国鉄の小西、すもうでは若の海、開隆山、俳優では、もうさかりはすぎたが高田稔、こういうところをつないで見ると、一つの秋田的特徴が出てくる。なかなか目はな立ちがととのっていることにまちがいはないが、はたして現代の好みに通じるかどうか。……
 だが第一項だけは、あきらかな事実だ。たしかに秋田のことばには、ふるい日本のことばが多く保存されている。
「アエ、ナント、オショシゴド!」
 このショシ≠ヘ笑止≠ナ、もはや標準語としては死語である。すまない≠ニいう心持ちと、はづかしい$S持ちとがいりまじった感情を表現することばとして、日常さかんにもちいられる。
「ナントシテ、アレダバ、ヂラットシタモダオ」
 これは直訳すると、
「何と彼は平然としていることよ」
 ヂラットシテ≠ヘむかしの宮廷語つつららとして≠フなまったものだそうだ。
「シダラケネエ、メラシダゴド」は、
「だらしがない女中ね」
 でしどけなき女郎衆(めろうしゅ)にこそあんなれ≠ニ「源氏物語」やなんかにそのまま出てくるやつだ。
 ののしりのことばには、
「ホエト!」
 というのがある。こじき≠ニいう意味にもつかわれるが、その語源はほがいびと=i家々の門に立ってえんぎのいいことをいってゼニをもらうもの)。これまた古語だ。

 近年、科学映画の製作でしばしば国際的大賞を受けている岡田桑介氏は、むかしは山内光といい、松竹映画ですごく人気のあった二枚目であった。
 その頃ロケーションのため奥羽線に乗ったら、とてもひなびてうつくしいむすめがいるので、そのとなりに腰をおろした。さっそく彼はとくいの話術で話しかけ、彼女も、彼の都会的なムードにしだいに惹かれてくるようだ。
 そのうちに汽車はトンネルにはいる。その一瞬のくらがりを利用して手をギュッとにぎり、ほおを彼女のほおにさしよせた。
「きみはすばらしい!」
 すると彼女は反射的にからだをひきながらひくい声でいった。
「恋いびと!」
 むすめはからだをよじりながら、泣きそうな声で何べんもそのことばをくり返し、山内くんはますますハリ切って、彼女のやさしい抵抗≠突破しようとする。そのうちに車内はまたあかるくなった。するとむすめはスッと席を立っていなくなったと思うと、やがて一人の警官をつれてきた。そして山内くんをゆびさしてしきりに何かうったえている。
「オイ、キサン。オバコサエダジラシルドハナニゴドダ」(おい、きさま、むすめにいたずらするとはなにごとだ)
「そ、そんなはずはありません。ぼくたちはとてもしたしい仲なんです。彼女は、ぼくをやさしく『恋いびと!』と呼んだんですよ」
「アエ、バシコキ!(うそつき) オラ、ヤンダクテ(いやだから)ホエト!ッテイッタンダエ」
「……」

 東北弁の別名は、ヅーヅー弁≠セが秋田びとは、彼らのことばがそのようによばれることをこのまない。
「オラダノコトバダノ、ジージーベンデネエド。ソレハセンデエ(仙台)ダノ、フグスマ(福島)ダ」
 この抗議にもある程度のしんじつがある。よく聞くとたしかに東北弁は二つの種類にわかれているようだ。
 宮城、福島、山形グループと、秋田、青森、岩手グループと――地形的にいうと、東北地方の中央を南北にはしる奥羽山脈をさかいに、太平洋岸と日本海岸とにわかれそうだがそうではなく、北三県と南三県とでちがいがあるというのはどういうことだろう。そしてたしかに、南三県がズーズーを特徴とするという意味では北三県はそれにあてはまらない。そしてその北三県のうち秋田はまたひとりほかとはちがう京都オリジンをがんこに主張しているわけだ。
 私はそんな時いつも、親子のカニの寓話を思い出す。子ガニの横ばいをたしなめた親ガニが、「こうはうのだ」とやって見せたらやっぱり横ばいだったという。――つまりは東北の各県がいかにその方言の特殊性を強調しようと、第三者からは全部が同じ東北弁であるということ。……

 標準語か、方言か。――これはノンプロ演劇ではいまでもたいへん重要な問題だ。
 おたがいの意見や考えをただしくつたえることは民主主義社会の根本条件であり、そのために言語の標準化と、標準語の普及が学校教育その他でたえず、真剣になされているわけだが、これがドラマになってくると、大分めんどうになる。
 というのは、ドラマは一つの社会の、ある人間の状態を活き活きと表現することによって相手に強い感銘をあたえるものなのだが、地方のひとたちが標準語によってそれをしようとするばあい、正しい標準語の発音とアクセント≠ニいうことにばかり気をとられて、かんじんの人間表現のほうがすっかりおろそかになるということがじつに多かった。それよりは、思う存分、その土地のことばでしゃべってしばいをするほうが、たとえことばそのものに不明な点がたくさんあっても、作者や演技者がつたえようとする感動だけは直接、強烈にこっちにひびいてくる。そのほうが、ドラマとしては本筋ではないかということだ。しかしそれではノンプロドラマは、教育の場でおこなわれている言語の標準化を全然無視していいものかどうか。……
 そしてこのことはまた、国際人であることが先か、日本人であることが先かという民族の生き方の問題とも根本的につながってくるのである。

(「友愛」1962年2月号)


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