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山方操先生のこと


 小学校二年から四年までの担任は、山方操という若い女の先生だった。
 新学期が始まって間もなく、ある時間の前、先生がなかなか来ないのでいたずらな生徒が黒坂に落書きをはじめ、続いてわれもわれもとそれに加わる。その中にはもちろん私もいた。
 そこへ先生がはいって来られた。私たちはワァと叫んでバタバタめいめいの席に戻る。先生はその落書きを見て、「だれですか、書いたひとは」というと教室内はシーンと静かになった。そのうちに一人が立ち、「おらだし」といって下をむくと「ほかにいませんか」と先生。また、二、三人立った。女の子もまじっている。だが私は立てなかった。立たなければならないと思いながら、「あなたは級長でしょう。級長のくせに……」といわれるのがわかり、それがつらくて動けない。「ほかにいませんね」と先生がいうと、立っていた一人がまわりを見まわし、「大嶋君も書いたし」といった。それが当時の私の名字だった。
「……」
 といったわけで仲間はみんなゆるされ、私だけが廊下に立たされることになる。
「先生はウソつきがきらいです」
 ちょうどビチョビチョの雨の日で、廊下は暗くつめたかったことが今でも忘れられない。授業が終ってほかのクラスのこどもたちがワアワアさわいで私をとりまいた時のつらさときたらなかった。
 私はそれ以来、絶対ウソでごまかすことができなくなった。私のことばが信じられなかったら、私の友だちにきいてもらいたい。「おまえはおとなになりきっていない」と彼らはいつも私にいうが、私にはその方がやすらかだ。

 山方先生はご自身の感情をそのままはげしく出される方で、何か私たちを怒らなければならないことが起ると、沈痛な表情で教壇に立って、何もおっしゃらず、じっとひと所を見すえておられた。そのうちにほほとあごがブルブルふるえて来て、なみだがながれ出す……この間が、私たちにとって、何よりもつらかった。先生は、私たちの過失をまずおのれが罪としてくるしんでおられるのが、よくわかるのだ。
 しかし先生はきびしいだけではなかった。毎朝ハンカチの検査があり、きたない生徒があると、小言は何にもおっしゃらず先生がもって来たきれいなのとかえてくれ、授業が終わって帰るまでに、それを全部洗ってアイロンをかけてめいめいに返してくれる。毎週月曜日には指の爪の検査があり、つむのを忘れてきた子の爪は昼休みに先生がつんでくれた。

 先生はまた柔道をよくされ――今から四十年前、女性でありながらすでに嘉納治五郎(※1)門下であったのだ――講道館から高段者が来て型を示す時、いつでも、その相手に選ばれるのであった。その当時のことだから、もちろん先生は柔道着はつけられない。和服に紫紺のくくりばかま、黒靴下といういでたちである。柔道着を着た高段者は、先生のかげるわざによってバタンと大きい音をたててあざやかにたたみにころがり、あるいは、先生に背負い投げや、腰投げをかけて、先生のからだを高々と空間にえびのように反りかえらせる(この時には、そのポオズだけで、投げない)。何か、妖しい性的な感じがそこにただよい、私たちは先生にはげしい哀憐をおぼえるのであった。在学中、何度かこの場面を見たが、先生はその度に、ほとんど紫色といっていいほど顔をあかくされ、羞恥と緊張で、ひさしがみのおくれ毛がふるえているのがはっきり見えた。

 私たちが中学の上級生になったころ、先生のことが新開に出、秋田女子師範卒業でありながら、特別抜擢で東京の赤坂小学校に栄転されたことを知った。それからまた何年か立ち、わが国の小学校の女訓導として先生がはじめてアメリカへの留学生に選ばれたことが大きく報道され、「どうだ」とこっちが胸を張りたくなる。
 戦後東京での秋田県人会に出席し、山方先生の噂が出た時、先生が女子で最初の小学校長に選ばれると「私は子どもとつきあう以外、能のない人間ですから」といってことわり、「それでは後がつかえて困ります」と東京都の学務課がいうと、「それならやめましょう」と辞表を出して、私立の学園に移ったという話を開かされた。

 今、人事院の総裁をやっている佐藤達夫(※2)君は私とその頃の同級で、彼の父君は、秋田県の内務部長であった。二年足らずで彼はよそへ行ってしまい、それ以後お互い消息は絶えたが、ある機会で半世紀をへだてての再会となる(達夫君は六法全書だけで武装したコチコチの官僚でなく、北原白秋を師として和歌を学び、植物への愛と研究でも有名で、私はその文章のいくつかをすでに新開などで読んでいたからひとしお親近感がある)。すると佐藤君はすぐ、
「山方操先生はお元気ですか」
 といい、瞬間私の胸にはぐっと何かがこみあげる。
 地方官であった父君にしたがって、二、三年毎に各地を転々とした彼は、当然多くの教師に送迎されたにかかわらず、山方先生をいまだに強く記憶していることは私にはおどろきで、そのあとすぐに山方先生をおたずねして彼のことを話すと、
「ほう、いつもカゼをひいていて、くびに真綿を巻いていたあの佐藤さんが……」
 これにもまいった。山方先生が生涯手がけられた児童は恐らく何万という数だろう。にもかかわらず先生はその頃の彼のことをうれしそうにこまごまと私に話して下さる。こうした機縁で山方先生と佐藤達夫君をかこむわれわれ在京の男女数人の同級生の懇親会がもたれることになった。その晩、
「先生にはいつか爪を切っていただきました」
 と佐藤君がいうと、
「爪切りとハンカチ洗いは今でもやっていますよ」
 と先生は笑い、今の学園でも一、二年生はかならず先生が担任するということ、しかも教え子のほとんどを記憶していることなどを話される。それからも、年に一度くらいの割合でそれはつづいたが、山方先生も佐藤君も一度も欠席しなかった。

 山方先生は五、六年前、自動車にはねられたのがもとでお亡くなりになった。生涯独身で、私立のひら教師としてその生涯を終えられ、それだけにそのお葬式もまことにひそやかであった。だがそこにかざられた「人事院総裁 佐藤達夫」の花環は清潔、荘厳で、少数の参列者は「このおばあちゃんはこんなにえらいひとだったのかしら」とささやきあう。しかも佐藤君は議会中であったにかかわらず、はじめから終りまでそこに正座し、まことに恭謙であった。
 この山方先生をトップとして、中、高、大学とずいぶん人間的に魅力のある先生が多く、その点私はつくづくしあわせだったと思う。

※1 嘉納治五郎(1860〜1938)は講道館柔道の創始者。「柔道の父」と称される。
※2 佐藤達夫(1904〜1974)は法制官僚。日本国憲法の制定にも深くかかわった。1962〜74年まで人事院総裁。

※この文章は、1973年10月「教育月報」に掲載された「住みついて」をベースに、1953年8月「カリキュラム」掲載の「名優であった先生たち」、および1974年11月「道路建設」掲載の「めずらしい因縁」の中の、山方操先生に関する記述を引用、再構成したものです。(著作権継承者)



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