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夜叉王忌 −修善寺−


 私はむかしから旅行が大嫌いだ。終戦後大陸から引きあげて来てから、昨年まで約十年、箱根の山をこしたことさえなかった。汽車というやつがどうにもやりきれないのである。そのくせ温泉は、北は北海道から南は九州までのめぼしいところはほとんど知っている。それらはみな汽車でなければゆけないのにどうしたことだとお考えになるかも知れないが、私の前半生における境遇や職業が、旅とむすびついていたのだからしかたがない。十年前、自由な野人になってから、私は汽車と絶縁してホッとした。

 作家の多くは、土地の宣伝のためにまねかれたり、〆切を間にあわせるために出版社からカン詰めにされたりで、その生活は温泉と切りはなせないようだ。ところがそれは、私には適用されないのである。私はまだそんなところにカン詰めになったことは一度もない。つまりそれほどはやらない作家だということになるが、何といっても私は自分のふだんの仕事場がいちばんすべての調子がいいので、カン詰めの注文はほとんどおことわりしているのだ。観光地のもよおしには昨年の夏はじめて参加した。「あひる会」というアマチュアの絵の同好会があって、それが、修善寺の夜叉王忌に招かれたのである。私もその会の会員で、しかも演劇関係者は会員にはほとんどいないということでぜひというのであった。

 修善寺は前にも行ったことがある。一高の時だった。親しい仲間七、八人で、大島からポンポン蒸気で伊東へ渡り、それから長岡へ出た。そこで一泊する予定が一時間ぐらいで急に修善寺へ行くことに変更されたのである。
 理由は、私たちが風呂へ入っているところへ、職業女性たちが、まったくあらわな姿態でドヤドヤとわりこんで来たということであった。隠すべきところを隠さぬばかりか、何たる無礼! 天下の一高生に対して、おくめんもなく、
「遊んでゆけ」
 とせがみ、からだをおしつけ、こっちがへきえきしてとび出すと、
「あんれ、ウブだこと」
 といって笑いはやした――それが、間貫一の後輩たちを憤激せしめたのである。しかし私は、じつは、ずっと長岡にいたかった。当時の私たちには、なまの女体を見る機会はまったくなく、はげしい欲情のもだえは、どれほどつねにそれを妄想させたか知れない。当時私は、結婚までは絶対に童貞を守り通す決心だったから、そんな女たちにあたら宝をうばわせる気はなかったが、それだけに、なおのこと、妄想の根源をしげしげと見たかったのである。私は、何べんでも入浴し、何べんでも見て日ごろの飢渇をみたすつもりだった。それが、たちまち、
「かかるみだらな土地には一刻もおられぬ」
 という決議となり――もちろん、私も大賛成をした、心にベソをかきながら――さあっと次の予定地修善寺へ移ったという次第であった。

 修善寺の宿は菊屋別館であった。ひろくてしずかに、浄らかで、たべものはあらかじめ献立がしめされて、好きなものがえらべるというようになっているのもよかった。翌日出発の時、茶代をいくらおくという相談になって、こっちが適当だと思う金額には、ふところが追いつかず、とうとう、思い切って、ここには一銭もおくまいということになった。クジ引きで代表をきめ、番頭を呼んで、
「今度の旅行でここが一番気に入った。ゆえに、茶代はおかない。その代り、何十年後にはきっとえらくなって、盛大にむくいるであろう」
 というようなことをいうと、番頭はにっこりし、
「かしこまりました。一高の学生さんはみな、末は大臣、博士ときまっております。お茶代はその時こそ、十分にはずんで下さい」
 ――そして茶代がえしの手拭を一本ずつみなにくれたのだった。

 「夜叉王忌」で行った時の宿もまたそこであった。むかしの清雅だったおもむきは大分うしなわれ、どこか荒廃のけはいがあるのもやはり敗戦の影響であろうか。土地の芸者たちが来て酒宴になり、さまざまな余興が舞台にあらわれた。この女性たちの中から、明日、私たちによって、「ミス楓」と、「ミス桂」がえらばれるのである。したがって、そのサアヴィスはまことに濃艶をきわめた――こういう事前運動は、あのそうぞうしい議員の連呼式とちがって、大いにひとの心をなごやかにする。
 その中にあって私は、ひどく孤独でみじめであった。一しょに行った芸能人だけでなく、画家も作家も、こうした招待にまるで馴れ切っているようなのが私をおどろかせ、そうした社交性がまるでない、そのブキッチョな私自身のポオズが、私にははっきり見えて愛想がつき、やり切れない異和感にくるしめられた。そして思いはしきりにむかしにとび、番頭があれほど期待(?)してくれたにかかわらず、大臣にもならず、博士にもならず、まして一人前の作家にもなれないで、こうして、コミで何十年かぶりにここに来ているおのれににがい笑いを感じないわけには行かなかった。当時の仲間には日本銀行の幹部もいれば代議士もいる、大学教授も実業家もいて、それぞれ幾度かこの宿をおとずれて、当時の約束をはたしているであろう。ただ自分だけは今度もまた茶代のいらない旅行なのだ。――そう思うとひどく申しわけない気がして、長谷川伸氏の名作『一本刀土俵入』の駒形茂兵衛ではないが、何とか、何かでカタチをつけないとおさまらなくなった。そこで舞台におどり出して先代左団次の夜叉王の声色をたっぷりつかったのもかげながら、「茶代がわりの土俵入」のつもりであったのである。……

 あくる日、審査は厳正に行なわれ、昨夜見た女性の中の二人が、「栄えある誉れの栄誉」(当日の祝辞による)をカクトクして、カンムリやら花環やら多くの賞品にかざられることになった。私はそれからすぐ東京へ帰ったが何人かは残って、その晩、それらの女性を呼んだら、
「いそがしくて、行ってはおれぬ」
 という返事だったという。当選したトタンにえらくなってしまうのはあえて代議士諸君ばかりでないらしい。

(発表紙誌不詳)


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